じっくりあじわうブログ

じっくりあじわう、ということに興味があります。

自転車と歩きでの散歩の違い、2 〜便利が「楽しむ」ことにもたらす影響〜

こんにちは!

ジダラクです。

 

「歩く散歩」と「チャリでの散歩」の体験を通して気付いたことがあったので、それを書いていきます。

今回は第二弾。

前回の記事はこちらです〜

jidaraku1125.hatenablog.com

 

 

では早速本編いきましょ!

 

〜便利が「楽しむ」ことにもたらす影響〜

 

まずは純粋に自転車と歩きの違いに関して話していきます。

 

f:id:jidaraku1125:20190808173315j:plain

図1

 上り坂、平坦な道、下り坂で歩きと自転車のスピードを比べました。当たり前なことなのですけど、歩きはどれもスピードが遅いですが負荷はあまり変わりません。自転車は、平坦と下り坂は楽にスピードが出ますが、上りになると一気に落ちます、負荷も自転車の重さの分が自分にかかります。上り以外は圧倒的に自転車の方が快適ですね。(ただ、下りで一定以上のスピードが出るとコントロールできなくなる怖さがあったので、それはそれで負荷はかかりました。)

 

 さて続いては、上から地図を見たときの図です。上がチャリ、下が歩き。

f:id:jidaraku1125:20190808173738j:plain

図2

 自転車は、まっすぐで見晴らしがいいところだとめっちゃ前に進んでいきますが、住宅街や都心など、見晴らしが悪かったり、歩行者や自動車が激しく危険が多いところではスピードを下げざるを得ません(自分は怖がりなので...)。自転車の旅をしたとき、歩きの旅のように、一本横の狭い道を通っていろんな景色を見たいなと思っていたのですが、初めの頃は新鮮だったのでいいものの、途中からは、「横道にそれると遅くなるし、気を張るしだるいな...」と避けるようになっていきました。自転車はスピードを出して、風を感じるのとか楽しいですしね!

 一方歩きは、見晴らしが悪かろうが、危険が多かろうが、スピードは変わりませんでした。ゆっくりの方が、景色は見やすいし、一つ一つを楽しめるし、横道に逸れても多少時間がかかるルートになる程度だったので、あまり気にはなりませんでした。

 

 さて、ここからは考察。先ほど、自転車では横道を避けるようになったと言いました。そこに違和感がありました。だって、自分は旅をしたくて、いろいろみたくて自転車の旅をしてみたのだから。歩きの時ではいろいろみに行けたのに、そしてそれぞれの情景に立ち止まり向き合うことができたのに、自転車ではなぜ向き合うことができなかったのでしょうか?

 自分は「当たり前の違い」なのではないか?と思いました。

f:id:jidaraku1125:20190808174619j:plain

図3

 歩きは、自転車に比べてスピードが遅く、負荷が普通です。しかし歩きのスピードや負荷は、どんなことをしてもなかなか変わらないのがポイント。当たり前から下がることがないので横道に逸れても登り坂を上がっても(山を登るとかならしんどいけど)多少は問題ありませんし、それに取り組むフットワークが軽くなります。

 自転車は、スピードが早く、負荷が少ないのが特徴です。なので、歩きに比べて「当たり前だ」と思うボーダーが上がることになります。そしてそのボーダーよりも低くなると面倒くさくなったり、ストレスに感じるようになります。だから、上り坂や横道はできるだけ避けるようになっていきます。なんなら、景色を見るために自転車を止めるのも面倒になります。「スピードを止めるほどのメリットはあるのか?」って探り出します。果たしてこれは本当に便利なのか?

 当たり前は体感でできていくものではないか?って思いました。それは自転車の旅で実感したのですが、自転車乗り初めの時はバンバン横道に逸れていきました。それは多分「歩きの時の当たり前」がまだ自分に残っていたから。「歩きの当たり前」な自分から見ると、「自転車は早くて楽で有難や。だから、バンバン寄り道していろんな景色を見ていこう!」って思っていました。しかし、自転車に乗って2時間もすると、自分は自転車のスピードと負荷に慣れることで「自転車が当たり前」になり、横道にそれるのが嫌になりました。

 新しい技術とかもそんな気がしますよね。スマホとかも、昔はめっちゃすげーってなってたけど、今ではもうガラケーには戻れない。ガラケーで写真とかとったら画質が悪くて、ストレスを感じるようになると思います。昔はきっと喜んだり、普通だと思ってたのにね。 

 果たして、便利が幸せに繋がるのか...そんなことへの気づきをひとつ得られた気がしました。そして、当たり前を壊すのは「他と比べること」なのかもしれないですね、それは本当に他と比べるだけじゃなくて、想像を通してってこともあるかも。その人・物がいなくなることを想像したり、それのおかげでできたこと、幸せになれたことを想像する。そうすると感謝につながるのかもしれません。言葉通り「有難い」ってやつですね。思えば「有難い」は「当たり前」とは逆の言葉です。

 

ーー追加(投稿後に考えたこと)ーー

 それって、便利に関してだけに言えることではないかも。って思いました。自分にとって大切なものを失う苦しさ、それも、当たり前と同じ仕組みでできていると思いました。

 自分の中で、その物、人との経験を通して、それがあることが自分の中でどんどん、当たり前になっていきます。多分、思考では頑張って当たり前にしないようにしても、無意識や実感では結局「当たり前」になりがちだよなって思います。

 自分の好きな曲の細野晴臣「悲しみのラッキースター」(下に曲のリンクを貼っておきます。)がそこに関して面白いことを言っているなって思って。ずっと、素敵な歌なんだけど、なんで「悲しみ」なんだろう...って思っていました。自分にとって好きな人ができて、その人と一緒に過ごすことは幸せだよな...って。でも、ようやく最近気づいたのですが、いつかは好きな人とも死を通して別れてしまうから、「好きな人ができる=その人を失う悲しさを得る」ってことなのか!って気づきました。だから、「悲しみを運ぶラッキースター」なのか〜って。自分にとって大切なものを作る時、悲しくなることを覚悟しておくと苦しくないのかもしれませんね...。逆に、悲しくなるだけ自分には大切なものができたのか!って思うと悲しさを持てる嬉しさがあるのかもしれません。

www.youtube.com

 

おまけ

 図3の真ん中あたりにあるイラストに関して、あれの意味は、自転車で坂を下る時も実はしんどいよな...。って話です。坂を下ったら下った分だけ、そのあとに上り坂が出てくる可能性が高くなります。下る快適さよりも、登る辛さの方が自分にとっては上で...。だから、坂を下るたびに、この先にある潜在的な上り坂を想像して面倒くさくなってしまっていました。同じように感じる方もいますか〜?

 

宣伝

 今週末にワークショップを開催します!!
 死を通して、自分の価値観、生活を見直してみるワーク。プロトタイプではあるのですが、興味がある方はぜひいらしてください!!

www.facebook.com